ボクノハザマ

性別と心と創作をメインにたまに日常のことを書いてます

すこしづつ時は流れて

 

おとといは夕方からメンタルクリニックに行った。
ここ数日間は就労支援施設の面談→サポステ→メンクリとまわり、はやくにも今週末は心理検査をうけることに決まった。(初診も待つ覚悟でいたのだが、ここまで現状さくさくっと進んできたのでありがたい)
今晩にはNHKクローズアップ現代で大人の発達障害特集がやっていた。これもゲスト専門家の先生が、自分が通っていた大学の先生でとても偶然だった。



続いて昨日は地域の市民ホールでひきこもりのケアを研究している精神科医斎藤環先生の基調講演を聴きに行った。近年は「若者」が意味する年齢の幅が変わってきている。就労相談施設など利用年齢層も15歳~49歳にまで広がっており、その背景にはコロナの影響もあるが、ひきこもり人口の高年齢化が増えている現状があるという。一昔前に思っていた若者が多い印象だったが特定の年齢層によらず、ひきこもり自体もそんなに珍しくはない。国民病というか、なるつもりがなくたって誰にでもなる可能性は十分にあると思った。

ひきこもりの支援、心のケアというのは真正面、正当法でぶつかっていけるほど簡単ではない。そこは理論に基づきつつも相手は人間なので、人を介しながらその場その場にあうケアを編み出す必要がある。ことひきこもりにおいては、社会的義務や責任など不安や恐怖からでは人は動かないためべたに甘やかすことを推奨している。「安心・安全」の環境確保を大前提に少額の資金や生活ルールを設けつつ心の余裕をもたせることが社会復帰のために不可欠なのだそうだ。(いい意味でとてもcrasyな方法)
ただそれも理由があって大切なのは就労という核心を突くことではなく、他愛もないやりとり対話を続けることがケアになるんだそうだ。


次は自分が一番気にしていた、精神障害についてどう診断するのかついてのこと。最近の発達障害にかんするラべリングというのは果たして簡単に出せるものなのか、本人にとって知ることに意味がある一方で、その誤診があることも十分疑った方がいいのだという。精神医学で発達障害は先天的な脳のつくりによるもので基本的になおせるものではない。少なくとも後天的に突然発症するものではない。だから過去から現在まで時間をかけてみていく必要があるようで、風邪のように症状だけでは発達障害かどうかを判断できるものではないらしい。ただ気づくきっかけとして、今までは見ないで済んだ環境下だったから気がつかなかっただけで、社会に出たりひきこもることで顕在化した生きにくさの発露の一つに発達障害(脳の機能)が疑われるそうなのだ。

参加者の割合は、ひきこもり家族がいる50、60代だったり、就職氷河期にあたる世代、自分と同じくらいの20~30代くらいの人はちらほらであまり見かけなかった。
下は23歳の若者、上は40歳まで。自分でも10年以上部屋にこもり続ける生活をイメージしてみたがきっと無理だろう。上には上がいる。一瞬安心したが、それよりも自分のことを半ひきこもりと思っていたことが恥ずかしい。いや、安心というよりも自分のいる環境も、この国のほんの一片の画角でしかないのだなと思った。この国の足元でも表面で取り繕って生きている人は本当はたくさんいて、その多くはきっと複雑な環境を抱えて生きているんんだろうなと思ったりもした。(あくまでもそれは想像の範疇でそこはわざわざ大変ですねなどというのは禁句な気がするし余計な押し付けだから口が裂けてもいわない)

***
いつからコミュニケーションが能力として扱われるようになったのだろう。
面接や業務中に話の疎通がうまくできない、協調性がないだけで、なんでも発達障害と決めつけて接することはラベリングする側の都合にすぎやしないか。
先生の話では医師の誤診がほとんど当てはまるのではないかと指摘していたが、自分は一般社会の精神障害に対する知識理解の乏しさが多いこと、そしてラベルを付けなければ生きていけない、社会の圧迫感こそ生きづらさに繋がるのではと感じている。ラベリングのためだけになんでもかんでもクリニックをいくのはどうなのかなと思う。そしてクリニックに行くという事はどういうことを意味するのか。精神障害におけるラベリングという行為は本来は気軽にできるものでもなければ、誰がいったからとか、もっと言えば自分で自分のことを決められる行為でもない。ラベルを貼る側と貼られる側その構図について自覚しておく必要があるのだと思う。
個人の私情をはさまずにそれを診断できるのが心理検査にあたるもので、今となっては知るのがいいのかどうなのか半分ずつで複雑な気持ちではある。

特性と障害って紙一重。何を基準に障害か否かのボーダーラインは常に時代とともに変わっていく。ひとりひとりがラベルではなくて、特性をもった個人として認めあって社会参画できる世の中は来るのだろうか。

ちなみに先生が当事者と向き合う時は「生きる困難を抱えたまともな人」として接するんだそう。誰にでも生きる悩みはつきものだけどその重さって自分しか分からない。

 

他者との対話はケアでもあり薬にもなる。対話療法も興味深いお話をきけてよかった。




また進捗があったら引き続きこのテーマで書きたいと思う。