ボクノハザマ

性別と心と創作をメインにたまに日常のことを書いてます

どうすることなんて思いつかないのに

仕事のこと。サポセン再訪してきた。今回は心理士で施設長(70代くらいの女性)との面会でだったがあまりいい時間にはならなかった。
最初はもろもろの近況を話してメンタルの面で、って話をしたところ、途中から施設独自の心理チェックシートを渡される。およそ30分弱解き続ける。結果はすぐわかるものですか?と聞くも、ご自身で解きながらわかるでしょうとあっけなく返される。

話す中で他の担当にまわしたほうがいいと思ったのか、途中からキャリコンを紹介されることに。キャリコンに回すときも仕事の失敗経験等話しておけば気もおさまるからみたいな会話が聞こえてて。

話していて何がつらかったって若いという価値だけの対応しかされなかったこと。通院のことや対人関係の悩みもざっくばらんに話して、カチンときたこと。「認定受けてどうするつもりなんですか?」、「今までにお友達一人もいらっしゃらないの?」、「(発達検査と伝わってなかったのか)ウイルス検査」呼ばわりされたことだった。


「認定受けたらどうするつもりなんですか?」
こっちも分かってないから聞いとるんじゃーー!!クリニックもここに来た経緯も話したしね。これからどうすればいいのか分からないからあっちこっち人に会って駆け回っているのに。何十年以上NPOでひきこもり支援に携わってきたとは思えない。雑以外の言葉が見つからない。

当日までうまく話せるか、支援のプロとはきいていたのでそのあたりの事情も当事者とあたっていればくんでくれるだろうとも考えていたのだがそれ自体が無駄にしか思えなかった一日だった。
初回の面会の担当者に家族構成、悩み、生い立ちなど細かく聞かれて話していたのでそれも内部共有されてなかったのでそれもちょっとガッカリ。
次回はキャリコン担当者と一回面談はうけるつもりだが、以降はここは寄る場所ではなくなったのでまた考え直そうと思う。


帰宅すると思った以上にぐったりしてしまっていた。めまいでフラフラしてしまった。思い起こして今書いてても悔しいのかなんなのか、怒りしかわいてこない。

歩き始めた今だって行ってよかったのか、どうすればよかったのか、これでいいのかわかりっこない。自分自身ですら止められない。
また決断が鈍るじゃないか。またフラフラしなければ、悩まなければならなくなったじゃないか。

あとあと冷静に考えればそうだ。そもそもこのジジババ世代に今の仕事観・現場のことを分かってもらう方が野暮な事なのかもしれない。

これは私の考えだが人生において分かってもらいたい期待は生きる希望になる。それに傷ついてしまうくらいなら初めから悟ったうえで期待も何ももたずに、人を敵と思って警戒に警戒を重ねて生きた方が得策だ。でももしそればかりだったら。それがなくなったら信頼の下に成り立っている規律や道徳はどうなる?それが崩壊し人間の住む場所はどこも死と化するのではないだろうか。
人間は期待するようにできた生物なんだと思う。

***
スマートフォンで簡単に得られるものが増えた世の中。それが逆に新しい悩みを生んでしまっていることに気がついた。悩みを生む種はむしろ身のまわりのものと距離が近すぎることにあるのだろう。最近は創作から離れたり、できればSNSも離れたいし、進んで悩もうとせずに一旦脇に置いておきたい気持ちでいっぱいだ。

スランプというものではない。創作は生き物だと思うから距離を適度にとってあげないとその関係性に息苦しくなってくる。

損得とかアウトプットのためのインプットとか頭で区別しなくてもいいもの。無関係で非生産なものをたっぷり味わいたいこの頃である。

進捗

前回()から、2回目のメンクリへ。WAIS-Ⅲ(心理検査)を受けに行った。これはいくつか項目別でIQ知能を測る検査で点数そのものより平均との差を比較し、障害の傾向を見極めるものらしい。
ちなみに大学は心理学専攻でこの名前は見かけたが実習で受けたことはなかった…

 この検査を受けた理由は昔から対人恐怖と緘黙を疑っていたこと。就労支援相談でそれを相談したところ心療内科受診を提案されたからだ。学生時代、職場、日常場面限らず人と雑談ができなかった。あるときは話してみたかったんだよ、といってくれる人もいたけどいつも何を話せばいいか言葉が出てこなかった。当時、自分はそれを忙しい環境にかまけていて話せないと思っていたがどうやらそうでもなかった。頑張ればできないわけではないのだけれど、小さな音が気になったり、ホウレンソウも苦手、来客対応もまわりをよくみるようにしていたもののお茶出しなど気づくのが人よりも遅かったり。それを考えるうちにこのまま好きかもしれないことできそうなことで無鉄砲に仕事探しをつづけるのに限界を感じていたのである。コロナ状況下で仕事はおろか、精神的に落ちぶれて病気になる可能性だってなくはない。何年生きられるのかは時間の問題だ。好きと適性は違う。それだったら残りの人生を考えても苦手や弱さを知ったうえで物事判断する方がコスパがいいのではないか。それが一番知りたかったのだ。

検査は2時間弱あって心理士さんと一対一で個室に入る。詳細は割愛するが、言葉の意味を答える問題、パズル、画像の並び替え、計算などさまざま。いわゆる脳トレのようなものだったが使っていない知識は忘れるし、数字関係は昔から苦手で時間かかるのはわかっていた。一通り終了して得意、不得意な部分について簡単な感想を伝えて終了。
メモもとれないから記憶力は問われるところかも。意外にぐったり疲れた。
ただ、担当する心理士との相性もあると思った。今回の女性の心理士は態度がぶっきらぼうで答えづらくもあった。最初に一通り説明はあったのだけど質問が分からないことを伝えると「わからなかったらいってくれていいですから!」と答え待ってたんだよとでもいわんばかりで変な緊張感があった。


あくまでも数値は参考資料の一つ。実生活と組み合わせた上で判断するらしく時間をかけないと現場のプロでも判断難しいのだろう。

正直判断をハッキリさせたい気持ちはある。そういう烙印をもらったほうがいい意味で覚悟が決まるし生きる上でも普通はいらない、あきらめがつく。ただその一方でグレーゾーン寄りではないかなとも半分思う。ネットでもチェックリストを探してはみるもののあまり見つけられなかった。それくらい実際に人を介してみないことには自分では判断はつけられない。

 

次回の通院まで2週間弱ある。
どうなることやら…



すこしづつ時は流れて

 

おとといは夕方からメンタルクリニックに行った。
ここ数日間は就労支援施設の面談→サポステ→メンクリとまわり、はやくにも今週末は心理検査をうけることに決まった。(初診も待つ覚悟でいたのだが、ここまで現状さくさくっと進んできたのでありがたい)
今晩にはNHKクローズアップ現代で大人の発達障害特集がやっていた。これもゲスト専門家の先生が、自分が通っていた大学の先生でとても偶然だった。



続いて昨日は地域の市民ホールでひきこもりのケアを研究している精神科医斎藤環先生の基調講演を聴きに行った。近年は「若者」が意味する年齢の幅が変わってきている。就労相談施設など利用年齢層も15歳~49歳にまで広がっており、その背景にはコロナの影響もあるが、ひきこもり人口の高年齢化が増えている現状があるという。一昔前に思っていた若者が多い印象だったが特定の年齢層によらず、ひきこもり自体もそんなに珍しくはない。国民病というか、なるつもりがなくたって誰にでもなる可能性は十分にあると思った。

ひきこもりの支援、心のケアというのは真正面、正当法でぶつかっていけるほど簡単ではない。そこは理論に基づきつつも相手は人間なので、人を介しながらその場その場にあうケアを編み出す必要がある。ことひきこもりにおいては、社会的義務や責任など不安や恐怖からでは人は動かないためべたに甘やかすことを推奨している。「安心・安全」の環境確保を大前提に少額の資金や生活ルールを設けつつ心の余裕をもたせることが社会復帰のために不可欠なのだそうだ。(いい意味でとてもcrasyな方法)
ただそれも理由があって大切なのは就労という核心を突くことではなく、他愛もないやりとり対話を続けることがケアになるんだそうだ。


次は自分が一番気にしていた、精神障害についてどう診断するのかついてのこと。最近の発達障害にかんするラべリングというのは果たして簡単に出せるものなのか、本人にとって知ることに意味がある一方で、その誤診があることも十分疑った方がいいのだという。精神医学で発達障害は先天的な脳のつくりによるもので基本的になおせるものではない。少なくとも後天的に突然発症するものではない。だから過去から現在まで時間をかけてみていく必要があるようで、風邪のように症状だけでは発達障害かどうかを判断できるものではないらしい。ただ気づくきっかけとして、今までは見ないで済んだ環境下だったから気がつかなかっただけで、社会に出たりひきこもることで顕在化した生きにくさの発露の一つに発達障害(脳の機能)が疑われるそうなのだ。

参加者の割合は、ひきこもり家族がいる50、60代だったり、就職氷河期にあたる世代、自分と同じくらいの20~30代くらいの人はちらほらであまり見かけなかった。
下は23歳の若者、上は40歳まで。自分でも10年以上部屋にこもり続ける生活をイメージしてみたがきっと無理だろう。上には上がいる。一瞬安心したが、それよりも自分のことを半ひきこもりと思っていたことが恥ずかしい。いや、安心というよりも自分のいる環境も、この国のほんの一片の画角でしかないのだなと思った。この国の足元でも表面で取り繕って生きている人は本当はたくさんいて、その多くはきっと複雑な環境を抱えて生きているんんだろうなと思ったりもした。(あくまでもそれは想像の範疇でそこはわざわざ大変ですねなどというのは禁句な気がするし余計な押し付けだから口が裂けてもいわない)

***
いつからコミュニケーションが能力として扱われるようになったのだろう。
面接や業務中に話の疎通がうまくできない、協調性がないだけで、なんでも発達障害と決めつけて接することはラベリングする側の都合にすぎやしないか。
先生の話では医師の誤診がほとんど当てはまるのではないかと指摘していたが、自分は一般社会の精神障害に対する知識理解の乏しさが多いこと、そしてラベルを付けなければ生きていけない、社会の圧迫感こそ生きづらさに繋がるのではと感じている。ラベリングのためだけになんでもかんでもクリニックをいくのはどうなのかなと思う。そしてクリニックに行くという事はどういうことを意味するのか。精神障害におけるラベリングという行為は本来は気軽にできるものでもなければ、誰がいったからとか、もっと言えば自分で自分のことを決められる行為でもない。ラベルを貼る側と貼られる側その構図について自覚しておく必要があるのだと思う。
個人の私情をはさまずにそれを診断できるのが心理検査にあたるもので、今となっては知るのがいいのかどうなのか半分ずつで複雑な気持ちではある。

特性と障害って紙一重。何を基準に障害か否かのボーダーラインは常に時代とともに変わっていく。ひとりひとりがラベルではなくて、特性をもった個人として認めあって社会参画できる世の中は来るのだろうか。

ちなみに先生が当事者と向き合う時は「生きる困難を抱えたまともな人」として接するんだそう。誰にでも生きる悩みはつきものだけどその重さって自分しか分からない。

 

他者との対話はケアでもあり薬にもなる。対話療法も興味深いお話をきけてよかった。




また進捗があったら引き続きこのテーマで書きたいと思う。


かすり傷だけど気になるの

ここ数日は就労相談でバタバタとしている。
先週は障害者就労支援施設の相談窓口にアクセスした。(最初はハローワークなのかもしれないが、窓口はほとんどが素人なので込み入ったことが話せない)
担当の人と話してみて一通り話ができたし、就業よりも生きにくさの悩みについて聞いてくれていたので話しやすかった。こういったところのスタッフさんは日々当事者と接しているので安心して話せた方だと思う。


なぜ最近になって気になったのかというと、面接をうけるたびに、経歴ではなくもしかしたら自分が気がついていないだけで、欠陥や落ち度があるのではないかと考えた。今まで性格だと思っていたが、対人スキルがいつもひっかかていたため、単に就職支援の窓口ではないところに相談したかったのだ。


昔から対人場面になるととっさに言葉が出てこないことがあった。自意識過剰で、自分の方へ人が歩いてくると挙動不審になる。少数グループでも同じ。早くすぎてくれないかと沈黙が怖かった。最近では母親に常に単独行動をしていることを気にかけられていた。仕事をかえるたびに「職場に一人でも仲良く気軽に話せそうな人いないの?」ときかれる。母親としては話せる人がいると仕事の気が紛れ、付き合いが増えると楽しいといいたいのだろう。
聞き流しているつもりでも今の自分にはグサリグサリと心は傷ついていたのかもしれない。言われるまで気にしたこともなかった。…そう思うことすら自分は変なのだろうか?好きでひとりでいると思ってたけど。知らず知らずにやるせないさ、悔しさ、怒りにさえ近い感情がふつふつと沸いてくるのであった。

 

 母親には申し訳ないけれど人といて楽しい気分を味わった記憶がない。(低学年のときくらいだ)緊張だけが強く、怖いのかテンパってるのか鼓動が昂る。そしてまず言葉が出てこない。どんなこと考えてるのかよくわからないといわれるし。(←自分でも分からない)考えすぎてなのか人の前だとうまく表情を作るのもひきずるのだ。
身体は硬直しながらも、頭の中ではもし勇気があったらこの瞬間で目の前の人と話せるかもしれない。10人はできないだろうけど1人くらいは新しい友達だってできる。
…悔しいくらいそんな気持ちになったことは何度もある。

 

常に人と付き合うことが楽しい人はそれでいいし、短期でいろんな人と連れるのが好きな人いろいろだ。こんなことになるのなら仕事も趣味のように、人づきあいが楽しいか否か、人それぞれでいいじゃないかと思う。仕事の場面だからこそ心配されるのは分かっているが、それが自分にはおどおどしい強要(と感じる)てしまうことがあり勝手に苦しくなってしまうのである。

 

手帳をもらうのにあたるのか。それほどでもないといえばそうだしグレーゾーンでもあるような気がする。会社勤めが全くダメなのか。たまたま苦手の条件を知らなかっただけで障害者雇用枠に入れるものなら自分に合う仕事はあるのか。仕事は何をやるかより選び方次第なところが大きいのではないだろうか。

 

これらのことについて気になりだしてしまったのも何に触発されたのかはわからない。
社会情勢は関係なしに自分の中でテーマがふとおりてくることがある。
ほんとうにタイミングということしかない。誰にしもあるようなかすり傷といってしまえばそうなのかもしれないが改めて働きかたを考えるうえで向き合いたい。
来週は初診をうけにいくのでそこでなにか方向性が見えるかどうか。

 

今週もぐちゃぐちゃとまとまらず探すのが進まなかった。重い腰になってしまった。

 

 

 

 

 

 

ちょっとした記念日


こんにちは。

 

Aセクシャルについての本を読んで以来情報を集めております。

10/11は「カミングアウトデー」になり、10月25日からは啓発活動「ACE WEEK」にあたるそうです。まだまだ知らない記念日が多いですね。

 

長い歴史の中でもLGBTQ+、ACEは存在してはいましたが、いいも悪いも現代まで日々変化してきている、そしてこれからも変化し続けていく流れは当たりまえだと思うのです。インターネットによって可視化されたことで同時に変化していくスピードもものすごいなと。 

その変化を追いながら自分自身も日々勉強中の身…。知らないこともあるけれどかといって知識だけで「正しい」ことは言えないのも事実かなと感じます。

 


この日にあわせてというわけではありませんが、
昨日は外出ついでにとあるものを見つけに雑貨屋さんへ。
それもAce Ringを買いました。

ネット通販で知らべてもこればかりはリングなので試着しないとわからない…。

 

あてもないままだったけれどたまたまシルバーアクセサリーのお店で発見。ちっこいレディースのアクセサリーより存在感のあるシルバーアクセサリー好きなのでこれは期待できそうと。
店員さんに聞いたらいろいろとだしてくれて現物見るといろいろほしくなっちゃう^^
金額がゆるせば6000円弱のクロスデザインのリングがあってそれもよかった。

 

今回は初めて試しに買いたかったので予算内でおさめました。でも安いだけで妥協したわけではなくて。合わせてみてリングの太さ、コーティングしっくりきたのです。

買った後早速つけてそのあとも出かけてました。

 

 

指輪のつけ方ですが色はブラックで、右手中指にすれば素材デザイン問わずなんでもいいそうです。
日常的にお守りのようにつけられるからリングの合わせ具合は人それぞれでいいかも。
強く主張的につけたい場合はリングの太さ次第で服とバランスがとれそうな感じ。

SNS、インスタグラムなどで「Ace ring」で検索かけてみても参考になった!

 


もちろんリングをつけてもしっくりこない人もいるかもしれない。
卒業する人、捨てる人もいるかもしれないけれど。
本に書いてあったようにそれをかたくなに守り続けることが本質ではないから。

 

今はこのリングがしっくりくる気がします。
見せるためというよりも自分がしっくりくるか、振りかえるためにつけるものかと。

 

 

そんなわけで10/12は「ACE Birthday」かな。
2回目の新しい自分がうまれた誕生日・記念日にします!

 

 

来年もこの日を忘れずに。
変わっていってもいい。


自分らしさをだして生きていけますように。

 

 

服を見つけていくということ


このごろ好きな服がよくわからない。
いや年月を経ていくほど自分の好きなものがわからなくなっていく気がする。


 最近のファッションなども「ジェンダーフリー」特集が組まれているようだ(読んだこともなく。あてにもしていない)
たしかに待ちゆく人をみていても、わかりやすく女子・男子の服を着ている人をあまり見かけない。むしろそれ自体がカッコ悪いとさえ思っているのかもしれない。

 

トレンドなのか、自分がレディースのダボっとしたパンツをはくとどうもダサい。傍から見ててもかっこよくあまり見えない。リラックスなのかラインを隠すものなのかよくわからない。日本は流行だというとそれ一択がほとんどでどこへ行ってもそれしか売ってない。

ジェンダーフリー」とか「性差をこえたクロスボーダー」とか大々的にコピーが書かれていても実際それぞれの性に属したものの前提で規格がつくられているものが多いと思う。

本当の意味で性別を越えるような服を着たいと考えると、そこには自分自身が何をもって服を選ぶのかに立ち変えざるをえない。コピーだけでは買えないし着こなす自信がない。不思議なもので「性差はないですよ」と言われると逆に悪い方が引き立って見えてしまうことがよくある。

 服を買う時、自分はネット通販はあてにしておらず、ほぼ店舗で買いたい。
手に取った時の服の肌ざわりや色味もそうだけど、単に店舗の雰囲気まで見て周るのが好きなのである。

 
 この前たまたま通りがかり気になったのが「Design Tshirts Store graniph(グラニフ)」というお店。

「世界中のアートやアーティストをつなぎ、キャンバスにみたてたTシャツやアパレルアイテムにデザインを施している(HPより)」ブランドとのこと。アートだけでなく有名なキャラクターやテレビ、マンガなどともコラボレーションしているらしい。

ゆるっとかわいい系の柄が多い印象であまり気にはとめてなかったが、何よりユニセックス規格(女性服もメンズライン)で作られているのがうれしい。
 僕のような人間にはレディース、メンズ、ユニセックスの表記の違いだけで心の安心材料は違うのだ。Tシャツはほか季節ごとに長袖、パーカー等もあり、Tシャツと同じ柄で夏、冬そろえることもできそう。


 この日はコントロールベアのスウェットとドクロの絵のシャツを購入した。
着てみるとちょうどいいゆったり感と、「ユニセックス」という響きの安心感に包まれる。(←特にこれが大事)性差に配慮している等コンセプトはないが直接お店で確かめて買える喜びがここにはある気がした。

 

現在はトップスがメインだが今後はボトムスラインも作ってもらえるとありがたい。

 

 

はじめに

当ブログは、FTX/ジェンダーフルイドの管理人の日々のことや
ジェンダー、LGBTQ+α、HSP摂食障害等について、制作の進捗など綴っています。
※あくまでも個人的な意見及び見解であることをご理解、ご了承くださいませ。

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